- 移住年
- 2020年
- 職業
- 会社員
大学までサッカーに打ち込んだ木下昂士郎さんは、諫早市が本社の日本ベネックスにUターン転職しました。チームが勝つために自分は何をすべきか。国見高校時代、小嶺忠敏監督から求められた「常に考える」ことが今、とても役立っているそうです。
大学までサッカー漬けの日々
出身地の島原市はサッカーが盛んで、私も小学2年から始め、国見高校に進学しました。
毎日のように往復10キロの山道を40分くらいで走りました。3年間で丸一日休みは計1週間もなかった。小嶺先生はすごく厳しかったですが、私たちを大事にしてくれているのが節々で伝わるので、みんな好きでした。
3年の時、県予選で負けて正月の全国大会には出られず、当時、埼玉県2部リーグだった東京国際大に進学し、サッカーを続けました。
卒業後は、サッカーが縁で宝くじやスポーツ振興くじなどを運営している会社に入社。仕事は安定していましたが、物足りなくなり、美容家電のメーカーに転職しました。通販番組で商品をPRする仕事は面白く、交渉のスキルや営業の考え方を学ぶにつれて、もっとワクワクする仕事をしたいと強く思うようになったのです。
ちょうどその時期にコロナの流行が始まりました。不要な外出の自粛を呼びかけられる初期の頃。何もすることがなく、自宅近くの東京交通会館(有楽町)にある「ながさき移住サポートセンター」に立ち寄りました。
担当の人から長崎は(人口流出で)大変なのですが、良い会社もあるという話を聞いて、転職担当の方からヒアリングを受け、諫早市の日本ベネックスをご紹介いただき、東京のオフィスで小林洋平社長にお会いしました。
振り返ると、私の考えや特性を素早く、そしてよく理解していただき、小林社長に引き合わせていただいたのです。サポートセンターの方々は長崎の会社経営者と親密にコミュニケーション取られているので、ウェブサイトでは出てこないような情報を聞けたり、個々の企業の経営者の考えや将来のビジョンを教えていただいたりと大変お世話になりました。
自由に動いて、会社を大きく
日本ベネックスは産業機器や空調・電子機器の製造業とエネルギー事業が柱の会社で、社長から将来のビジョンや展望を聞くにつれて、「面白そうだな」と思いました。
大きな会社にいると、働く醍醐味とかダイナミックさはあるのですが、会社が大きくなる過程を見る経験はできません。なおかつ役割を限定しないで働く、自由に何かを始めることを求められました。自由には責任が伴いますが、ビジネスマンとしての成長としてはこれ以上ない環境だと思いました。
Uターンにあたって、雲仙市からUIターン補助金として家賃補助(夫婦2人で月額25,000円)を2年間いただきました。
今は社長室マネジャーという肩書。中長期的な会社の成長のために必要なあらゆることを推進する役割。広告戦略を考えてテレビCMや屋外広告の企画、社屋の改修計画、新商品の企画など。また、採用などを横断的に担当しています。社内の雰囲気はフラット。社長や室長と話して、すぐに決めて実行に移します。細かな指示はなく、自由にシュートを打たせてくれる感じです。会社が大きくなっているフェーズなので、会社に伴って自分もビジネスマンとして成長できたらいいと思います。
何をやるべきか、常に考える
通勤は車で自宅から片道30分ぐらい。土日は4歳の長女、3歳の長男と雲仙市の百花台公園など大きな公園でたくさん遊んでいます。
高校の後輩である嫁とは27歳の時に東京で結婚したので、長崎へのUターンは喜びました。転職やUターンは、自分だけで決めていることが多く、嫁は黙ってついてきてくれています。
新たに移住を検討している方は、自分が何を軸にしているかを知ることが大事。生活を大事にしたいのならそういう移住をすれば良いし、仕事をしたいなら企業を見つけて入社できればミスマッチは少ないと思います。今は自治体が移住をサポートしてくれますし、様々な支援制度を事前に知っておくと、いざ動くときに役に立ちます。
サッカーでは、チームが勝つためには何が足りなくて、どうすれば勝てるのだろう、自分の役割は何だろうと考え、監督の意図を頭に入れて試合しました。高校時代、全国大会に出場するのはどうすれば良いかを全て逆算しながら考えていたことが今、生きています。
同じように、経営者の考えや思想とかを実現しながら会社を大きくするためには今、何をやらなければいけないのか。考える癖がついているから、考えるのが苦ではなく、自発的に前のめりに仕事ができていると思っています。